涼宮ハルヒの変装 その一




 物語においてもっとも頭を悩ませるのは、イントロダクション、すなわち導入部でどうやって読者の心を引きつけるかである。
 悪いことは言わない。涼宮ハルヒについてろくに予備知識を所有していない奴は即刻立ち去ったほうがいい。なぜならこれから俺が語る体験談は涼宮ハルヒに関する物語の一部であってそれ以上ではない。一を聞いて十を知るなんてことわざがあるが、そんな古代中国の超天才にしか通用しなさそうな理論を俺の会話に投じてみるのはお門違いも甚だしい。そこまで言われても蛇や虎がいるかもしれず、ましてや宝物など無いかもしれない洞穴に首を突っ込む猛者がいるのならあえて止めはしない。しかし読んでからネタバレだとか言うなよ。頼むから。
 さて、それは夏休みも終わり、だらけにだらけきったところに投下された定期テストの赤い点数に一憂し、本気を出すとかとも言いながら体育祭などの行事にまた浮かれていた秋の一日のことだった。体育祭ではハルヒと長門の超人的──間違えた、奴らは超人だ──な活躍を目の当たりにし、それからはSOS団の活動も控えめになっていった。部室では長門が本を読み、メイド姿の朝比奈さんからお茶を頂き、古泉とテーブルゲームをすることが日常のアルゴリズムの一部となりつつあった。
 だから、気を抜いていたのだろう。考えてみれば予告や第六感なんてものは偶然の産物でしかない。結果を見てから後付けするような程度の虚しい小言。
 本当の天災や危機や終焉というのは、唐突に降り掛かるのだと俺は改めて思い知らされた。
 ある秋の日、春にも同じような目に遭遇したにも関わらす、性懲りもなく俺は涼宮ハルヒと関係する世界の危機と直面する羽目にいたったのである。

 
     *


 奇妙な夢を見た。
 澄み切った夜空に満天の星が瞬き、何故かグラウンドの中央にキャンプファイヤーがこの世を焼き尽くそうとせんばかりに紅蓮の舌を揺らめかせていた。俺はなぜか北高の制服を着て突っ立っていて、さらに何人かの人間の形をした姿があって、彗星の尾のように長い影法師を背中ににその炎を見上げている。
 あれは誰だろうか。
 街灯に引き寄せられる蛾のように、俺はその人影に駆け寄った。近づくとその炎の巨大さに改めて驚かされる。クレーン車でも使わなければ組み立ても不可能そうな大きさ。まるで建物一つが燃えているほどだ。
 最初に振り返ったのは長門だった。
 次に長門の横で手をつないでマイムマイムを踊っている二人が動きを止めて俺を見た。一人は腰まで伸びた髪を楽しそうに揺らしていた。
 さらに近づくとその迫力は凄まじく、視界の半分を支配する炎に圧倒される。さすがにあの三人なみに近づく勇気はない。
 朝比奈さんは体育座りをしている。彼女は振り向いて、いつもの愛くるしい笑顔で冷静に口を開く。
「こんばんは、キョンくん」
 何とも悠長に答える。俺が返事をする前に、少し困ったような顔をしてそれでも微笑みながら、
「私にもわからないんです。気が付いたらここにいて、これが燃えていて、皆さんがいたんです」
 涼宮ハルヒの仕業だろうか。やっぱり神様に臨時休業なんてのはないのだろうね。神無月バンザイ。
「確かに、そうかもしれません」
 聞き覚えのある声に俺と朝比奈さんは顔を向ける。規則的な靴音をならしながら古泉はこちらに近づいてくる。それを見て、俺自身も薄汚れた自分のスニーカーを履いていることに気づく。いつもの仮面の笑顔のまま古泉は話し出す。
「ここは閉鎖空間とは違うようです。どうやら僕たちの他に人はいないようですか」
「俺は違いのわからない男なのでね。あんな馬鹿でかいキャンプファイヤーがこんなただっ広い場所で燃えていたら明らかに異常だと思うんだが」
「それもそうかもしれませんが、僕が確実に保証できることがあります。閉鎖空間に星の光は見えません」
 古泉は天頂へ人差し指を向けながら少し笑う。目の前には巨大な炎があるというのに、夜空はプラネタリウムを見ているかのように無数の星屑が輝いていた。
「なるほどな。んじゃここにいるのは五人だけか」
「それは彼女たちに聞いたほうがいいでしょう」
 炎を後ろに少女が一人走ってくる。長い髪を揺らしてやってくる彼女は、俺がよく知っている相手だ。
「いやぁこんなところで奇遇だねキョンくんっ、元気にしていたかなっ?」
 というよりもここがどこだか疑問に思わないのですか鶴屋さん。
「危険じゃないのは確かだよっ。こんなに星が綺麗だし! みんないるし!」
 そう言って鶴屋さんは浮かれて腕を広げてくるくる回り出した。火の粉が舞う夜空を背景にしたその適当な踊りは、物質文明に侵されていない民族の舞踊を思わせた。
 俺はとんでもなくカオスな夢を見ていると思った。夢だとわかるのは、これほどの炎なのに熱気をまったく感じなかったからだ。ふとラムネを飲みたいと心の中で嘆願してみる。俺の夢でもそこまでうまくいかないようだ。空中にビー玉入りのガラス瓶は出てこなく、代わりに谷口が空の闇から尻餅をついて落ちてきた。
 なぜお前がここにいる。と一瞬だけ考えたが、俺の夢の中だから仕方が無いか。腰をさする谷口は俺を見て、頭を振って辺りを見回し、
「キョン? ここは一体どこだ? なんでお前がいるんだ?」
「俺が尋ねたいぐらいだ」
「あらキョン、いつの間に来てたの?」
 ハルヒは、溌剌とした笑顔で仁王立ちしていた。
「──どうして谷口までいるのよ」
 俺がいたら問題かよ。と谷口が毒づいている。
「ハルヒ。ここがどこだかわからないのか?」
「知らない」
 即答した。
「それより、みんな揃ったんだから踊りましょ! こんなに大きなキャンプファイヤーをただ眺めているだけなんてもったいないわ」
 無茶な話である。建物一つが燃えているような勢いだ。こんなの囲むのに九人では手の長さが到底たりん。一人当たりあと腕が四本必要だぞ。
「大丈夫。彼らがいる」
 炎のそばにいた長門が、近くに歩み寄ってくる。
 その後ろから、ラムネの瓶の色に似た、透明な水色の身体の人間が歩いてきた。頭部の辺りにアメーバの核小体のような赤い玉がある。俺はこれに何度か会って、しかもそいつの名前を古泉から聞いたことがある。
 神人。
 あろうことか人間サイズの背丈で何十人と長門の後ろをついてきている。でかい炎に気を取られていて、しかも半透明な身体だったから気づかなかった。不気味や恐怖を通り越して俺の口の端から笑いがはみ出ていた。そいつ等を指差し古泉に言葉を求めると、
「彼らは大丈夫です。極めて友好的な存在だと思います。そう怖がらなくてもいいですよ」
 古泉は寄ってきた神人の一人にエスコートされて、鶴屋さんはスキップしながら神人とともに炎に近づく。おどろおどろしい姿に恐怖したのか谷口は最後まで腕を振り回して抵抗して、腕と足を掴まれて神人二人がかりで運ばれていく。朝比奈さんは俺のそばに近寄って腕にしがみつく。目尻に涙を浮かべて俺を見つめている。
「──キョンくんは怖くないの?」
「平気ですよ朝比奈さん。きっと」
 抵抗は無駄だろう。神人たちと肩を並べて俺たちも炎に近づく。炎の周囲には神人たちによる青い円陣ができあがっていて、俺たちはその空いている箇所に入り込む。俺の右隣は朝比奈さん、そして左にはハルヒがいる。さらにハルヒの隣には、
 俺の妹がいた。
「どうしてお前がいるんだー⁉」
 妹はあっけらかんに大声で答える。
「気づいたらここにいたのー‼」
「何が始まるのかなキョンくーんっ!」
 妹の隣にいる鶴屋さんもまた笑顔で俺に呼びかけている。あの楽天的な性格は目を見張る。こんな事態でもうきうきと返事ができる君たちが末恐ろしいよ。鶴屋さんは古泉といかにも普通に並び、左端に位置する谷口はミニマム神人に恐れおののいている。
 小さな神人たちが全員で両隣の奴と手を繋ぐ様子は壮観でありつつも不気味すぎた。谷口の鵺の鳴き声のような絶叫に視線を投じると、神人に手を握られているだけであった。右隣の長門の様子を見る限りでは、別に何ともないようだが。炎を囲む神人たちが数珠繋ぎになっていく。
 そしてついに俺たちだけが残される。
 鶴屋さんと妹は姉妹のように手を握り、古泉もこれまた鶴屋さんと差し障りなく手をつないでいる。哀れにも谷口は馬手に古泉、弓手に神人と、両手に茨を抱えているような案配である。
 ということは。
「──ほら、さっさと手繋ぎなさい」
 こうなるわけだわな。差し伸べられたハルヒの右手に、俺は渋々左手を伸ばす。汗ばんだ手の平に確かな感触と体温を感じる。
 そして右手は。
「あ、あの」
 半ば震えを押さえ込むつもりで朝比奈さんの手をしっかり握る。朝比奈さんははっとした顔で俺を見つめている。どう返すべきか。
「大丈夫ですよ朝比奈さん。俺が守ってあげますから」
 やたらリアルな夢であるが所詮は夢である。いくら恥ずかしい台詞を言ったってかまうもんか。
 どこに設置してあるのか、四方からスピーカー特有の雑音とマイムマイムの音楽が流れてくる。口火を切ったように神人たちが円形に歩き出す。長門が沈黙を守って歩き出すのに始まり谷口の叫びで終わる。古泉は相変わらずの表情で、鶴屋さんと妹はけらけら笑って、
 俺の隣には、炎をじっと見つめるハルヒの笑顔と、火の粉舞う夜空に浮かぶ朝比奈さんの横顔があった。
 悪い夢なら早く終わってほしい。
 しかしいい夢なら、もう少し続いてほしい。そんな気もする。
 満点の星空の元、俺たちは踊り出す。かつて砂漠の民が水源を見つけた喜びの舞踊を、天を覆うかのような炎の柱の前で披露する。


  • 最終更新:2008-05-01 22:35:24

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