涼宮ハルヒの変装 その三

     *


 結局、ベーコンエッグを作った。
 ガスと施錠を確認してから、俺たちは学校への長く険しい道を進んでいった。ここまで早く学校に来ることは金輪際無いかもしれない。
 ランドセルを背負った妹──長門──と一緒に登校してきたのはいいが、そのまま入っていいのだろうか。
「ついてきて」
 こう言われれば仕方があるまい。俺は妹に連れられるように自分の学校の正門に足を踏み入れた。校舎がもやに包まれるほど朝っぱらだというのに結構な数の生徒たちがテント設営に励んでいる。生徒たちは作業の方に集中していたので長門のことを兎や角言われることはない。でも今日何かあったっけとも考えながらも思い出せず、妹の靴を俺の靴箱にしまっていた。
「こっち」
 長門は来客用のスリッパを履いている。上履きに踵が入らないのを苦戦しつつ這々の態で長門を追いかけて、目的地についた。
 旧校舎、旧文芸部室。
 現SOS団アジト。
「ここに関係者全員がいる」
 長門がドアをノックする。それに答えるように、はーいと向こうから女の子の声が、
 ちょっと待て。
 普段だったらそれは朝比奈さんが言うあずである。朝比奈さんがこんな朝早くに学校にいるのも驚きであるが、
 今のは朝比奈さんの声ではなくハルヒの声じゃなかったか。
 それと長門の状況を合わせると答えは一つ。
 嫌な予感。虫の知らせではなくテレパシーのような直感。まんじゅうが怖いドアが怖い。おそるおそるノブを握る。捻って押し出して目の前に広がっている光景は平穏な日常から逸脱した何かが、

 ドアを開いたその瞬間、鳩尾に強烈な一撃を食らった。

 長門の身体いえども質量の法則に従えば確実に体重が存在しているわけで、腹部めがけてダイビングタックルされたら吹っ飛ぶしかしかない。胃からさっき食べたフレークがこみ上げてくるような衝撃に耐えたが、俺は廊下に押し倒された。
「キョンくーん! 会いたかったー!」
 長門の声でキョンと呼ばれたことは皆無だったので反応に遅れた。ともかく俺の上からどいてくれ。立てない。
 しかしやはり信じ難いものだ。長門がいきなり舌たらずな口調になってたら俺は正気を失うね。
「ごめんねキョンくん、痛くなかった?」
 現に目の前で長門が妹になっているわけで。
 立ち上がるや否や妹に手を引っ張られ部室に入る。長門もついてきながらながらドアを締める。普段のSOS団のメンバーに鶴屋さんと谷口と妹を加えた七名が揃う。
 夢で見た全員が揃っているのか。
 いや違う。一人足りない。
 朝比奈さんの姿がない。唐突に背後から背中をはたかれる。前にバランスを崩し、たたらを踏んだ。
「キョンくんひっさし振りっ! 元気だった?」
 朝比奈さんの声で呼びかけられる。振り向いたそこに見えるのは朝比奈さんの姿であるが、口調が飛び跳ねそうなほど快活さ。
「──鶴屋さんですか」
 朝比奈さんではあり得ないにんまりとした笑い。肩をバシバシひっぱたくのは鶴屋さん流スキンシップの一環だろうか。
「さっすがキョンくん、見事な洞察力! といってもこの喋りじゃバレバレかぁ!」
 当てた自分でも信じたくありませんけどね。
 しかし、鶴屋さんが朝比奈さんになっているとは。
「──それじゃあ」
「たぶんキョンくんの予想通りさっ。あっちでお茶わかしているハルにゃんがみくる。んであたしがハルにゃんだよっ!」
 鶴屋さんが指差した先を見つめる。肉眼ではハルヒと鶴屋さんが佇んでいるように見える。
 が、
 元から背が低かったとはいえ、ハルヒがあんなに乙女らしい俯き加減の照れた目線を投げかけていることがあっただろうか。いつでも挑戦的かつエネルギッシュでまっすぐな目つき、それが俺の記憶の限りである。それとは対称に鶴屋さんの姿はこちらに背を向けていて顔の様子は解らない。

 ああ、やっぱりそうか。

 これもハルヒの仕業か。
 そう理由付ければ簡単だから話は早くて俺としても助かる。子供がいなくなったら天狗の仕業とか神隠しだとかで思考を止めた彼の人々の気持ちが嫌ながらもよくわかる。面倒くさい。その一言に尽きる。どうしてこうなったのか。そのややこしい原因追及に質の悪い頭脳を重労働させなくてすむところだけはハルヒに感謝する。
 けどなあ。
「へぇ〜、やっぱみくるのっておっきいなぁ〜! ほれほれっ」
 何と朝比奈さんは自分の胸を──いや違うか。鶴屋さんは朝比奈さんの胸を両手で抱え上下に揺すった。それを見てハルヒは──じゃなくて。朝比奈さんは真っ赤に紅潮して、
「や、やめてくださぁい! 私の身体で遊ばないでぇ!」
「まあまあいいじゃないみくるちゃん。こんな機会滅多にありはしないわ、存分に楽しまなきゃ!」
 鶴屋さん──ええい、一体どれだけ間違えりゃ気が済むんだ俺は。
「ハルヒ、もっと危機感ってのはないのか。何でこうなったのかとか、この摩訶不思議珍現象に疑問を抱いたりしないのか」
「だって考えたところで理由がわからないわ。答えのでない詮索するよりも楽しく遊んだほうが数百倍得でしょ」
 こいつに事態を解決する気は髪の先ほども無い。
「やれやれ、どうしたもんだろうね。谷口」
「あらかじめ言っておくと僕は古泉です」「やっぱりそうか」
 長テーブルを挟んで向こう側にいる、古泉になった谷口本人はSOS団の日常風景に唖然と眺めている。そりゃそうだ、自分の身体をもみもみしている巨乳の女の子をハルヒが涙目で阻止しようとしている。こんな奇妙なスキンシップを見られる機会は世界中どの国探しても絶対にない。そう信じたい。
「お前ら、いつもこんなことやってんのか?」
 谷口は俺等に如何ともしがたい目つきで尋ねるのだ。誤解するなよ谷口。明らかにこれは異常事態だ。
「も、もうやめてくださぁい!!」
 鶴屋さんは朝比奈さんの顔で小悪魔のような笑みを浮かべ、いひひと気味悪く笑う。
「それなら、みくるにもっと恥ずかしい思いをさせてあげようかなぁ〜?」
 すると鶴屋さんは両手で、朝比奈さんのセーラー服の裾を掴み、一気に真上へ引き剥がした。おへそと周辺の肌が剥き出しになり、黒のブラジャーに包まれた豊潤なバストがぷるんと揺れたように見えた。
 誰よりも早く朝比奈さんがハルヒの声で悲鳴を上げた。
 何度も朝比奈さんの着替えを不可抗力で覗いてしまった俺だから、朝比奈さんの次に反応して、古泉と谷口に向けて、まるでトーチカに潜んでいた最中に銃窓から手榴弾が放り込まれた部隊長のように。
「総員退避、繰り返すっ総員退避──────────────‼」
 妹の手を掴んで部室の扉を開け放つ。走って外に飛び出る。谷口の顔の古泉はいつも通り冷静に俺の後ろに続き、古泉の顔の谷口が最後に廊下に出た。開けっ放しのドアを締めたのは俺だ。
「なんだありゃ⁉ いきなり脱ぎ始めたぞ!」
「お前も知っての通り、SOS団はあらゆる不透明な魑魅魍魎の集合体だからな」
「にしたってあり得ないだろ、常識的に考えて」
 谷口、俺は常識にとどまっていられるお前がとても羨ましいよ。
「まさかSS+ランクの朝比奈みくるが黒のレースの下着とは」
 前言撤回。お前はそんなとこに目をつけてたのか。あれは鶴屋さんの趣向なんだぞ。たぶん。
 まあ部屋の中には長門がいるから大した悪戯もしないだろう。俺はそんな事を考えながら妹を見下ろ

 ん?

「長門か!」
「そう」
 手遅れだった。
 部屋の中にあの情事を止められる奴はいない。
 一体どんな情事が行われるか。想像するだけで朝比奈さんが気の毒だ。
「あなたらしくないミスですね」
 わかってるんだったら先に言え。
「いえ、言う必要もないと高をくくっていました。僕自身の判断ミスでもあるわけです」
 古泉は自らの頭を小突きつつ答える。
 そう言われても、慣れろというほうが無茶だ。ハルヒたちから見ると、鏡を見てないのに自分の姿が目の前に見えるわけで、否応がなしに現状を確認しているようなものだ。
 それなら勘違いすることもないだろうし、何となく雰囲気の違いを知ることができるから、俺よりも遥かに状況把握の面では優れているのは当然だ。俺の場合はそんなこともなくて、口調とかでしか判断できない分、慣れと記憶で理解するしかない。不利なのだ。
 そんな中、谷口は。
「──やったぜ」
 頭のネジが一本焼き切れたのか。谷口は手前の顔を指差す。
「えっと誰だっけ」
「古泉一樹です。よろしく」
 一体どうしたと言うのだ。と思うと、
「見ろよこの顔、これだけ整ってりゃ向こうから誘ってくる! 背も高いしルックスもいい! ナンパし放題だ!」
 馬鹿丸出しの締まりのない顔で、古泉の顔の谷口は拳を高く突き上げガッツポーズを決める。っておいどこに行くんだ。
「朝っぱらから起こされて損した気になったが、今なら正門で待ち伏せできる! やっと俺にも運が舞い降りた! いゃっほーう、古泉最高ぅ──────!!」
 古泉(谷口)は不審者そのものの大絶叫を上げながら旧校舎の廊下を走り抜けた。間抜けな後ろ姿が曲がり角に消えると、谷口(古泉)が笑みを浮かべて言う。
「ここは、彼におめでとうの言葉でも与えるべきでしょうか」
 むしろご愁傷様の方がお似合いだと思うがな。ただのイケメンだったらともかく、世界の崩壊を未然に防ぐ力を半強制的に与えられたイケメンだ。自由になる時間もろくにないだろうし、ナンパする余裕なんて皆無だろう。
 あいつがルックスに見合う人間性を持ってるとも思えないからな。
「お前は困らないのか? なんか大事な用事でもあったら奴に引っ掻き回されるぞ」
 古泉に聞いてみる。まるで仮面のような、それでいて谷口の顔では不釣り合いの笑顔を浮かべる。
「何とかなるでしょう。こう見えても、トラブルの対処は慣れていますからね」
 そうかと曖昧な返事で茶を濁す。俺はもっぱら考えることに頭脳の大半を使用していた。

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