涼宮ハルヒの変装 その二


    *


 夢だった。
 現実味のある夢だった。
 背中のじっとりと汗が滲む。カーテンの隙間から朝日が光線のように差し込んでいる。
 寝癖で絡みまくった後頭部をばりばり掻きながら、改めてそう思う。えっとどんな夢だったっけ。ハルヒと名誉顧問の鶴屋さんを含めたSOS団全員、それと妹と谷口がいて。
 馬鹿でかいキャンプファイヤー囲んで一緒にマイムマイムを踊った。
 まだ顔に炎の火照りが残っている感じがする。
 あれを悪夢と言わずに何と言う。
 そもそもハルヒが出演してくる夢で平穏なものを見た記憶は皆無だ。平安時代の貴族の間では、夢の中に想い人が出てきたら相愛であるなどどいう逸話があったことを思い出す。谷口を夢に見るとは、俺も相当疲れている。目頭にこびりついたヤニを摘むようにして落とし、枕元に置いてあった目覚まし時計に手を伸ばす。
 あまりの驚きに目を疑った。
 両親は親戚の付き合いで昨夜から出かけていた。うちの家系はかなり多いので大して珍しいことでもなく、俺は習慣的に目覚ましを設定しておいたはずだった。朝起きたら妹を起こして、トースト焼いてフレークを腹に詰め込んで、仕度してから学校に行くという予定だった。気楽ではあるが、寝起きの悪い妹と仕度のためにいつもより早く起きなければならず、慣れているとはいえ若干憂鬱な夜を過ごして布団に入った。
 世にも奇妙な夢を見て、目覚ましに起こされることもなく目覚めた。
 異常だった。理由はわからないが、アラームを設定し忘れたか時計の調子が悪かったのか。ともかく俺は目覚ましの音を聞かなかったのだ。
 今の時間。
 九時二十三分四十七秒。
 時計の秒針は休むことなく時を刻み続けている。
 布団を蹴飛ばし転げるようにベッドから起き上がる。
 大遅刻だと思った。
 はっきり言うと、あのとき俺はパニックの渦に飲み込まれていた。
 何故か妹を起こす前に制服をハンガーから引きはがしていたし、朝食のことも考えて時間のロスに判断力を持っていかれ、ボタンを一つずつ掛け違えていて嫌悪と後悔に胃が重くなったりして、ネクタイを付けようと襟を立てたところでやっと妹のことを思い出した。
 蹴りを入れるように扉を開き、そのまま妹の部屋の前まで走る。普段ならノックするのだがそんな暇は無い。むしろ妹はまだ気にしない。そろそろ気にしてほしいものだがと考えたりもした。そんな下らない躊躇いを吹き飛ばし、ドアを開け放ち叫んだ。
「すまん寝過ごした! 早く起き」
 ろ。
 最後の言葉は口の中で消えてしまった。
 目の前にあるのは確かにいつもの小学生らしい妹の部屋だし、布団もカーテンもがら空きの本棚も今までと変わらない。すでに妹は起床しており、私服に着替えて部屋の中央に佇んでいた。
 明らかな違和感を感じる。ピンク色のランドセルも何もかも準備されていて、今すぐにでも登校できる格好だった。
 襟を突っ立ってただらしない格好のまま、俺は立ち止まってしまった。
 こいつは妹じゃない。
 確かに姿は妹だがそれだけだ。
 そして俺は、こいつが誰だか知っていた。
「あなたの部屋の時計を少し調整した」
 錆を知らないチタニウムのように無機質な、必要最低限で話す抑揚のない、妹の声でそいつは言った。
「異常事態が発生したため、あなたと話す時間が欲しかった」
 妹の姿のそいつはゆっくりと振り返る。
 性格も人を構成する重要な要素だとどっかで聞いた。操り主が違う人形のようにそいつの反応は妹とはまったく違う。
 俺は無意識にその名を呟いていた。
「──長門、なのか?」
「そう」
「どうして妹の姿なんだ、何かに巻き込まれたのか? 妹はどこにいるんだ?」
「あなたの言う『何か』の定義が曖昧。あなた妹はここにいて、ここにはいない」
「どういうことだ、説明してくれ」
「何か異常な出来事に巻き込まれた。そしてあなたの妹は物理的にはここに存在する。しかし精神的には存在していない」
 そのひと言が、俺が精神的苦悩と肉体的疲労に身を投じる十月三十一日の始まりを告げた。
「あなたの妹の精神体と私の精神体が入れ替わった」

 信じられる奴がいたら、妹──の姿をした長門──とテーブル越しに対面して座っている俺と入れ替わってくれ。
「パンでも焼くか?」
「いい。これで大丈夫」
 フレークに牛乳を注ぐ。ちょうど皿の内側のラインに水面が達したとき、ぴたりと機械的に止める仕草は間違いなく長門がやりかねない行動だった。スプーンでさっとかき混ぜ、牛乳でふやけたフレークを口に運ぶ。何度か咀嚼をして飲み込む。正確すぎるアルゴリズムは恐怖を覚えさせる。スプーンを握りしめて微動だにできない俺に長門は、妹の声でプラットホームのアナウンスのごとき口調で語り出す。
「私はあなたがおそらく知りたいと望んでいる答えを推測しているつもり。この現象は涼宮ハルヒの能力である可能性が最も高い。確証ではない。万が一にも別の原因があるかもしれない」
 普段の長門らしくないと思う。長門が俺にかもしれないと言ったことがあっただろうか。
「身体が入れ替わっているため、正確な情報を入手できない。だからそのような表現を使った」
 試してみるか。
「どうしたの」
「口の端に牛乳付いてるぞ」
 俺が口元を指差すと、長門はティッシュを摘んで口の右側を軽く拭く。
 妹だったら手の甲で拭ってしまっただろう。
 これは冗談じゃないな。あくまで三割信用で七割疑惑だった。三割信用していただけでも俺にしては十分な譲歩だ。ハルヒが妹に何か吹聴して俺を罠にかけようとしたとか、そんな可能性を捨てきれなかった。
 あいつだったら本気でやりかねんからな。だから普段の癖を見抜こうとブラフをまいてみた。
 その結果、俺の疑念も長門の口についてた牛乳のように払拭された。
 目の前の正真正銘、中身は長門だ。
 喉に引っかかっていた疑念を胃に押し込めるように、牛乳を一気に飲み干す。テーブルに音を立てて置く。深呼吸をして、尋ねる。
「俺と話したいことって、これだけじゃないんだろうな」
「あなたと会わせたい人がいる。だから時計を調節した」 
 改めて長門の背後の壁に掛けてある時計を見る。なるほど。少なくとも俺が普段起きる時間じゃないな。この時間ならフレークどころかもっと品数を増やして料理できる。さすがにフレークだけでは腹持ちが悪すぎる。さて俺の数少ないメニューの何を作るべきかな、と考える一方で、
 疑念が浮かんでくる。
 長門が情報操作で時計の時間を変えたとしても、なぜそんなことする必要があるのか。
 胃の中に少し食べ物を入れたせいか、やっと頭に血が巡ってきた。
 会わせたい人がいる──さっき長門はそんなことを言っていた。これを考えれば答えは単簡に導き出される。
「まさか、他にも入れ替わってる奴がいるのか?」
 妹の姿の長門は、フレークをすくい咀嚼、飲み込んでひと言。
「そう」


  • 最終更新:2008-04-19 00:11:29

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