涼宮ハルヒの変装 その二十三
*
我が家の玄関を正面にする頃には雨も止んだ。
雨上がりのアスファルトの匂いが鼻先を冷やす。ぬれた革靴のみすぼらしいリズムが無人の住宅地に響く。
扉の曇りガラスから暖色の光が漏れている。
一応家にいるようだな。
──何て言って入ればいいのか。
思いつく言葉も無くドアノブに手をかけると、不用心にも鍵がかかってないことに気づく。
待ち構えていたかのように迎えてくれた。妹のものである薄い水色のエプロンを着て、ご丁寧にも頭に白の三角巾を巻いている。差し出すその手に白いタオルが握られている。
「──ずっと待ってたのか?」
「夕食は先に作っておいた」
長門から受け取ったタオルで、濡れた頭を拭きながら鼻を研ぎ澄ます。
空腹は最高の調味料だと誰かが言っていた。胸一杯に深呼吸すると、家の奥から食欲を倍増させるスパイシーなガラムマサラの匂いが漂ってくるのがわかる。全ては愛のターメリック。インドより伝わり、日本人向きに改良を加えられ完成した至高の夕食メニュー。
カレーライス。
そう言えばハロウィンパーティだったというのに、菓子の一つさえ食べていないのを思い出した。トリックオアトリートも甚だしい。
そして、たいていの場合は腹が空いてることを思い出してからやっと腹の音が鳴るのだ。
「すぐ食べられるか?」
頷く。
「そりゃ嬉しいな。すぐに盛りつけてくれないか? 五臓六腑が連盟を集ってクーデターを起こしかねない」
「まずあなたは入浴して着替えるべき。そのままだと体温が奪われる」
真面目すぎる妹の姿に気を取られて自分の水浸しの有り体を忘れていた。
片方の靴の踵に指を入れて脱ごうとすると、長門に手で止められる。
「言わなければならないことがある」
「俺がか?」
「そう」
二秒ほど顎に指を当てて考え、ふと脳裏によぎる。
「えっと、ただいま」
「おかえりなさい」
久しぶりに、長門の本当に微妙な微笑みを見た気がする。
──少し考え過ぎだったのかもしれない。
やっと俺は平和な日常に戻れたと思う。靴を脱いでろくに揃えず玄関に上がる。フローリングの床を歩こうとした時、
「お風呂にするか。それともご飯にするか」
長門。そのセリフは遅すぎる。というかちょっと趣旨が違うぞ。
湯気が立つ頭をタオルで吹きながら風呂場から出る。
すでに食卓にカレーが用意されていて、長門が俺の椅子の向かい側に座っている。
テーブルを挟むととママゴトみたいに感じられる。個体を存命させるために必要であり、動物としての欲を満たす為の行為だ。
とはいっても平たく言えば晩ご飯である。
我が家にこれほど光り輝くガラスコップがあったか記憶に無く、また使い古したはずのステンレススプーンに傷が見当たらないのが逆に違和感を醸し出す。数ミリの誤差無く並ぶ食器と、カレーとご飯が七対三に完璧に盛られているのには笑わざるをえない。
腰掛けてみる。
全くの無言。
「えっと、食べていいか?」
「どうぞ」
タイムラグなしに返答してきた。おそるおそるスプーンを手に取り、すくって口に放り込む。
良い香りだった。
たとえスパイスを適度に加えたレトルトカレーであっても、俺の食欲を満たすのには申し分なく、文句なしに舌鼓を打てる。
「うまいな」
一言。
「そう」
かちゃ。
スプーンが皿にぶつかる。
かちゃ。
──確かにうまいのだが。
かちゃ。
かつん。
一皿目を空にした時点でやっと気づいたのだが、俺が何かしゃべらないと、この家は留守宅のように静かになってしまうらしかったのだ。
「そう言えば聞いていいか」
「なに」
「ハロウィンパーティでお前の姿を見かけたけど、来てたのか?」
返事が帰ってこない。
「もしかして、知らないのか?」
首を横に振る。
「わたしがあなたの妹はマンションまで送った。あなたと出会うはずが無い」
長門のことだから嘘をつくはずも無い。
「そっか。悪かったな」
妹の姿をした長門は、そう、と一言つぶやいて、またスプーンを動かし始める。
ふと思う。もしかしたら気のせいである可能性も否定できない。
動転しすぎてありもしない幻を見た。そう結論づけるのも悪くはない。
あまりに疲れた。もうありもしないことに気をかけるのには辟易していた。答えのでない問題に直面するより、目の前のカレーを楽しむ方がずっと有意義に思う。
至って変わりのない夕食の風景でしかなかった。
「おかわりはたくさんある」
実際のところ、俺より長門の方が頻繁におかわりしていたのだが。
どうしてか、俺はそれほど食べられなかった。
- 最終更新:2009-02-23 20:06:44