涼宮ハルヒの変装 その五

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 本日午前中の授業は、秋の高い空の下で過ごした時間は、それはそれは実に穏やかで素晴らしいものになった。
 いつもなら、授業中は日本教育の金の回され方と時間に見合った成果が得られない自分の愚かしい頭脳を憂いながら眼下に広がる街を憂鬱に眺めていたものだった。
「あのっ、私ちゃんとしてますか?」
 後ろから朝比奈さんが小声で尋ねる。
 もちろんハルヒの姿で。

 その場にいなかった谷口を除く全員で議論した結果、ちゃんと授業に出席するという案で決定し、古泉と朝比奈さんは俺のクラスで、谷口とハルヒを演じてもらうことになった。
 鶴屋さんは席替えのような気分でしかないかもしれない。ハルヒは例え学年が一つ繰り上がっても十分に通用する頭脳だから特に問題はないはずだ。
 問題は妹と長門。長門を小学校に行かせるならともかく、妹に俺自身苦労している授業に参加させたところで九割九分九厘の確率で眠るに違いない。それに対して長門は、
「放課後まで、私と共にこの部室で待っていることが最善の方法であると思う」
 確かにそうなのだが、両親が出かけている時に無断欠席はかなりまずいのではないか。学校に連絡しても俺が両親に余計な心配をかけてしまう。
「あなたの妹はすでに今日の授業すべてに出席ずみ」
 ──ああ、なるほどね。
「情報操作は得意」
 それで俺の成績もどうにかしてほしいもんだ。と思ったが口には出さず、長門に迷惑をかけないようにしとけと妹に言いつける。妹はつまらなさそうに返事して、ふてくされたようにパソコン前のチェアに腰掛けてくるくると回っていた。
 最も無惨なのは谷口だろう。
 顔が良いことがすべてではない。古泉は特進クラスである。学力最底辺、赤点は貰ってなんぼの谷口の脳みそで立ち向かったらどうなる、まるで風車と思って突っ込んだらチェルノブイリだったドンキホーテだ。だから俺は奴にお悔やみを申し上げとくとする。みそラーメン。
 しかし古泉も災難だ。クラスでの印象とか評判が谷口に引っ掻き回されるだろうし。俺は古泉にそのことについて尋ねてみると、
「僕はクラスではあまり目立ちませんし、大した約束も抱えていませんから何とかなるでしょう」
 相変わらずの能面のような谷口の笑い顔で答えた。

 とまあ、こういうわけで朝比奈さんは俺の後ろのハルヒの席に座っているのだが、本人にとってはかなり気がかりらしく、横目で見てみるとその小動物に似たおどおどとする仕草が確認できた。
 とはいえ、不可抗力とはいえ、いくら鶴屋さんとハルヒのせいとはいえ、俺は朝比奈さんのあらぬ姿を目撃してしまったのである。こちらから喋り出すきっかけも掴めず、話しかけられるのを待つしかないという気まずさに頭から嵌ってしまったのだ。
 不安がピークになったのだろう。俺に小声で話しかけてきて今に至る。
「全然変じゃありませんよ。むしろ普段のハルヒより真面目なくらいです」
 そうですか、と朝比奈さんは呟く。しかしなんだ、朝比奈さんがこう後ろにいてくれるだけで俺の怠惰も一気に晴れる。毎日こうだったら俺の成績も上がってくれるだろうな、と妄想甚だしく思っていると、
「キョンくん」
「どうしました?」

「キョンくんには夢がありますか?」

 不意をつかれた。
「たとえばどんな職業に就きたいとか、どんなことをしたいとかって考えていますか?」
 まさかそんな質問だとは思わず一瞬だけたじろいでしまった。少なくとも授業中の内緒話にする話題ではないのでは。
 首をできる限り後ろに回して朝比奈さんの方を見る。いつになく真剣な眼差しで俺を見つめている。
「──いや、またどうして」
「こんな時だから聞けると思うんです。教えてください」
 ここまで朝比奈さんが突っかかってきたことがあっただろうか。
「お願いします」
 そこまで言われたらもう選択肢は一つに違いない。
 俺の夢──か。
 正直に言えば、ない。
 誰かを助けたいとか何かをしたいとか、明確な答えを求めず曖昧なままでいた。結局考えたところで解決に至るはずがない、そんな無意味な甘えの先入観に囚われているのは百も承知である。しかしぬるま湯に頭から浸かっていれば慣れてしまい、忘れてしまうのが関の山だ。
 窓の外の青は遥かに高い。引っ掻いた痕のような絹層雲しか浮かばない空から秋の太陽が差し込んでくる。光は白い顔と黒い影をはっきりと縁取り、ハルヒの顔から朝比奈さんの意志をさらに際立たせる。
 朝比奈さんが聞きたいのは安っぽい人生設計ではないのはわかる。
 だがそこまでだ。俺ができるのは考えることだけだ。
 俺は、俺が夢を語れる奴だとは思わない。
 ただ状況に会わせて臨機応変に動き回り、SOS団がなければ、モノクロ映画のようなノイズだらけの虚しい日常を怠惰に過ごすその他の人間だ。
 一人で何もできないわけではない。しかしそれは同時に、一人では何もし始めない証明になる。
 他人や成績で自分の道筋を定めてしまうような、塵芥に匹敵する思想。
 そんな俺に、夢を語る権利があるとは思えない。
 突然すぎて答えが出てこない。
 いきなり将来のことを尋ねられても戸惑うことしかできない。さらに、不可抗力であっても朝比奈さんの裸体を見てしまった気まずさから、
 こう答えた。
「すみません、保留ってことでいいですか。ちょっと答えに迷っていて」
 ──そうですか。
 あまりにもあっけなく朝比奈さんは折れた。陰影のはっきりした顔に少しだけ影が増えたような気がする。ちょっと宙に視線を泳がせて、窓の外に目をやる。俺もどうしようもなくなって、集中しようもないノートに目をやる。
 授業終了まで朝比奈さんに話しかけるタイミングを失い、その後も朝比奈さんは教室をついと出て行ってしまった。
 この時に何でもいいから答えていれば、違った展開になったのかもしれない。結局あとになってから、俺はこの言葉の意味に気づくのだった。
 異時間同位体の、過去の俺が知るわけなかったのだ。

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