涼宮ハルヒの変装 その八

 
 古泉が立ち去った後、俺は蛇口から湧き出る冷水を後頭部から浴びていた。
 秋とはいえ、汗を洗い流すのは気分がいい。
 校舎の方から音楽教師のアレンジした曲が聞こえてくる。本来スローモーであるはずのそれが、ジャズのリズムで軽快に演奏されていると実に新鮮に感じる。木々のざわめく音とともに心地よい風が吹いてくる。最後に顔を何度か洗ってから蛇口を捻る。頭を掻いて水気を飛ばし、体育着の裾で顔の水滴を拭おうとすると、
「キョンくん」
 いつからそばにいたのか、朝比奈さんがタオルを差し出してくれた。
「どうもすみません」
 お礼を言って真っ白でしみ一つないタオルを受けとる。タオルから漂う微かな匂いに艶かしさを感じ、顔を付ける。結構ふんわりとしているな。
「涼宮さんに悪いでしょうか」
 朝比奈さんが目を伏せてそんなことを言っている。
 ん、とするとさっきの『艶かしい匂い』はもしかすると、いや当たり前だがハルヒのだったのか。あー、実に気まずい。ハルヒの与り知らぬところとはいえ奇妙な欲情を抱いてしまった。罪悪感か背徳感が脳裏をよぎる。なるべくなら考えないでおこう。余計に妄想してしまう。
 髪の毛から滴る水気を吸い取りつつ弁解する。
「大丈夫ですよ。黙っておけばバレませんって」
 そうですか、の後に視線を宙に彷徨わせて、朝比奈さんは続ける。
「さっきのキョンくん、凄かったです。最後のシュートも上手で」
 言われて気づいた。同じクラスだから俺たちの方も見れたらしい。
 凄いとは言われても、さっきのはほとんど古泉の手柄だ。シュートが入ったのも、古泉が敵を一カ所にまとめていたからだ。そうでなければ俺たちに勝利はなかった。
「大したことはやってないですよ。やるべきことをやっただけですし、勝つつもりはありませんでしたから」
「え? どうして」
「宗教戦争に興味はないからですよ」
 きょとんと首を傾げている。
 こうやって会話してみると違和感がある。最早絶滅危惧種に認定されてもいいようなブルマを履いたハルヒが、俺に微笑んで、タオルを貸してくれて、丁寧語で話しかける。俺も俺でやはり同級生、それもクラスメイト相手に「さん」付けで呼び合っているのだから、第三者から見ればキャスティングミスで滑稽な風景だろう。
 中身が朝比奈さんだから仕方がないのだが、こうも当たり前のことがまるっきり違うように感じてしまうとは。日常は相変わらず偉大だよな。
 タオルを返すと朝比奈さんはそれを綺麗に畳み始める。
「でも、朝比奈さんもどうしてここに?」
 朝比奈さんは指をもつらせ、せっかく角を合わせたタオルが崩れてしまう。
「わ、わたしも顔を洗いにきたの」
「えっと、確か女子の更衣室にもシャワーがあったんじゃなかったっけ」
 朝比奈さんははっとした顔で息を呑んだ。忘れていたのだろうか。もしかすると、男子では滅多に使う奴はいないが、女子の需要が圧倒的に高く、朝比奈さんはその競争率にあぶれてしまった。そういうことだろうか。
「は、はい」
 でもそう考えると、勝手に朝比奈さんのタオルを使ってしまったようで気まずい。どうもすみません。
「あ、えっと、大丈夫です」
 そう言いながらも困った顔になる。ハルヒの困った表情もそれなりに可愛い。やっぱりあいつはもう少し性格を改めるべきなんだと思う。そうすればもっとモテるだろうに。
 しかしここにハルヒはいない。目の前にいるのは朝比奈さんなのだから、話したところでどうしようない。
 そこで、話のネタが尽きてしまった。
 沈黙が舞い降りる。朝比奈さんは顔を洗おうとはしない。俺の隣に立ちすくんで、手に握ったタオルを指でぐるぐる巻きにしてしまっている。ピアノの音色は止んでしまった。チャイムがなる気配もさっぱりしない。センスの欠片もないコンクリートの屋根の下から見上げる秋の青がどこまでも続くように感じられる。
 また突風が吹いて、揺られる木々のざわめきが響く。
 それと朝比奈さんの質問によって沈黙は破られた。

「キョンくんは、涼宮さんのことをどう思っているですか?」

 呆気にとられ、ショートの黒髪を風に揺らす朝比奈さんの姿を見つめるしかできない。
 俺を見つめる朝比奈さんの瞳は、真剣そのものだ。
「えっと朝比奈さん、それは」
 驚く暇もない。隣同士だった距離がシャーペン一本分にまで詰められる。
「今度はちゃんと答えて」
 いつもの大人しい朝比奈さんからは考えられない言葉の強さにたじろいでしまう。
 ここまで朝比奈さんが積極的だったことがかつてあっただろうか。
 中身が本人じゃないのはよくわかる。だから別に好きか嫌いかを聞かれても何ともないだろう。だが、ハルヒの姿をした人間に「涼宮ハルヒに好意を抱いているか」という疑問を投げかけられて答えられる、はずがない。
 そんな愛の告白まがいのことを、できるはずがない。
 これは半ば精神的脅しである。
 喉から絞り出す声も心無しか裏返ってしまう。
「ど、どしてそんなことを?」
「禁則事項です」
 ハッキリと言われてしまった。
 これでは誤摩化しようがない。正直言ってヤルタ会談とかキューバ侵攻とかよりも重要問題だ。世界がかかっているような次元だ。もしハルヒが聞いてたらと思うとぞっとする。早くチャイムがなってほしいと願うが現実はいつも残酷だ。
 腹を決めるしかない。
 腹式呼吸で腹の奥に息を溜め込んで、鼻から静かにゆっくり出す。もう一度回りに誰か以内かを確認してから、

 朝比奈さんに、言った。

 朝比奈さんはしばらく目をパチクリさせていた。今でも思うと恥ずかしい。第三者から見れば最高に滑稽な光景になっているだろう。目の前の少女への思いを晒し、冷や汗を流している俺がいるのだから。
「──意外でした」
 それが朝比奈さんの第一声である。
「キョンくんは、涼宮さんをそんな風に、」
 朝比奈さんは瞼を閉じて上を見上げ、鼻から息を吸って、俺とは逆に口から息を出す。ぱっと目を開いて、天使のような笑顔で、
「これはほんの冗談です。気にしないでください」
 へ?
 意味が分からない。
「少し試してみようかと思ったんです。こうやって、わたしが涼宮さんになっている時に、愛の告白を求められたキョンくんは何て答えるのかなって。それで、ちょっとだけキョンくんに意地悪をしたんです」
 少しだけ解ったような気がする。
 俺は朝比奈さんにからかわれていたようだ。
 こいつはやられた。まさか朝比奈さんが冗談を仕掛けてくるとは思わなんだ。てっきり、今までのが俺を騙すための全員でのハッタリで、わざわざこの機会になるまで俺を手のひらの上で惑わせていたのかと。
 朝比奈さんはコンクリートの日陰から日差しの元に出る。そして振り返って、キョンくんと呼びかけて、
「遅れないでくださいね」
 その呼びかけは、間違いなく朝比奈さんのものだった。


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