涼宮ハルヒの変装 その十五



『部長、SOS団二名を阿藤が追尾してます』
「よし、パニックを起こせ。群衆にまぎらせて連れ去れ!」


     *


 どれだけ走ったのだろう。方角を忘れ、脳内の地図から現在位置もすっ飛んでしまっている。後ろに、本当に阿藤が追っかけてきているのかもわからない。だが振り返る余裕はない。幾多の角を曲がって暗がりを走り、行き止まりにぶつかる度に絶望で頭の中が黒く塗りつぶされ、
 唐突に視界が開けた。
 観客だらけの体育館前に出てしまった。全体が一つの生物のように動く群衆が俺たちを飲み込んだ。黒山の人だかりに、朝比奈さんの手を握りしめる力が無意識に強まった。
「キ、キョンくん、」
 開けた視界が一気に黒に押しつぶされる。もう視界は役に立ちはしない。信じることが出来るのは手のひらの感覚だけだ。
 一瞬だけ指の感触が無くなる。もう一度握り返すが、違和感を覚える。朝比奈さんの手ではない。
 振り払う。
 別の手が触れた。その手に賭けて、握り直す。
 見えない視界の中で思い出す。この感触は、確かに朝比奈さんのものだと信じる。四方かもみくちゃにされるが、意地でも握り続けるつもりだった。
 絶対、離してなるものか。

 だが、俺はこの時とんでもない思い違いをしていた。


 ぱきっ。
 慣れない靴で走りすぎたせいだろうか。足元のバランスが失われる。
「きゃっ!」
 うつ伏せに倒れる。目の前にハイヒールの折れた踵が何度も跳ねて、無惨に転がる。
 もう仕方ないのに。わざわざ折れた踵の元へ近づこうとする。
 不意に、背中から気配を感じた。
 振り返る余裕はなかった。口元にハンカチを押し当てられると、意識が闇の中に落ちていった。


 ようやく人の波も消え、お互いの顔を見合わせられるくらいになった。
「痛いよキョンくん!」
 思わず手を握り締めすぎていた。視線を上げる。俺が手をつないでいる相手は変わった衣装を来ていた。エナメル質の光沢を持つ赤のハイレグ。メッシュのストッキングが細い足を扇情的に彩る。セミロングの茶髪に赤のウサギ耳。極めつけは、大きく開かれた胸元に星形のホクロ。
 バニーガール衣装の朝比奈さん。
 鶴屋さんだった。
「──どうして、」
 どうしてこんな所にいるんですか。
 鶴屋さんは唇に指を添える。静かに、ということか。ウサギ耳のカチューシャは指でつつかれると、跳ね返るように揺れる。
「実はこれ帽子の中に入れたまんまだったんだよね〜」
 鶴屋さんがマントの下にバニーガール衣装を着ていたことを思い出した。
「これだけ人が多ければ少し格好を変えただけで見つかりにくいのさっ! それでちょろっとマントと帽子を脱いでこうすれば、誰も追っかけてこないにょろ! でも急に人が動き出して、もみくちゃになってるところでキョンくんが手を──あれ、みくるは?」
 朝比奈さん。
 鶴屋さんの手が彼女の手になっていたから、俺は気づけなかった。
 やってしまった。
 目を伏せる。胃の底がずんと重くなる。あれほど啖呵を切っていてこのざまは何だ。結局女の子ひとり守り通せないのか。
「──そっか。はぐれちゃったの」
 鶴屋さんが俺の肩を掴んで、
「みくるだったら大丈夫。あれでもあの子はしぶといからさ」
 正直、自分に落胆することに精一杯で、鶴屋さんの言葉はほとんど俺の耳に響かなかった。
 ため息が出る。
 どうして、入れ替わっていたことを忘れていたのだろう。
 たとえその触覚が朝比奈さんの右手であったしても、今は、鶴屋さんのそれに他ならない。
 不幸でも何でもない。鶴屋さんがここにいたことが原因ではない。
 俺が手を離してしまったからだ。あの時、誰かに引っかかったりしなければはぐれることもなかった。こんな後悔に悩むこともなかった。
 仮に引っかかったとしても、すぐに握り返せば良かった。
 なのに、どうした。
 すぐ隣にあった小さな手を振り払ったのは誰だ。疑うこともない、俺だ。俺のミスだ。

 ──そうか。
 俺はハルヒの手を忘れていたのだ。
 あいつの手が、どんなのかさえ忘れていた。

 世界が崩壊しかけた、あの閉鎖空間での出来事も、俺の記憶のノートでは随分奥に追いやられているようだ。
 そう大したことじゃないと思うようになっていたんだ。
 怠惰はここまで人を愚鈍にするものか。
 どこまで俺は愚かなのだろう。
「キョンくん!」
 強く呼びかけられた。鶴屋さんが、カボチャ頭の目をのぞき込むようにして、俺の顔を見つめていた。大丈夫?、と心配される。
「さっきから何度呼んでも上の空だったからさっ」
 朝比奈さんの姿の鶴屋さんを見下ろして思う。
 おそらく、朝比奈さんはコンピ研に捕まった。連中なら朝比奈さんを人質に使うだろう。君たちの一人は捕まえた。敗北を認めれば彼女を解放してやろう。とか言うかもしれない。
 この際、負けを認めようか。
 ハルヒだって足を痛めているし、同時に鶴屋さんの身体が怪我していることにもなる。これ以上騒ぎを続けてもどうにもならない。三人にとっても迷惑だろう。
 諦めが肝心。どのタイミングで交渉に行くか。脳裏でそう考えながら、表情を偽って鶴屋さんに答える。
「大丈夫ですよ。それより、どうかしたんですか」
 白い指が群衆の一人を指差す。

「あれ、長門っち──じゃなくて妹ちゃんじゃないの?」

 延髄反射で鶴屋さんの指差す先に頭を振った。
 北高のセーラー服にショートの髪型。細い手足とレフ板のように白い肌。こちらに背を向けているが、右に左に周囲を見回すその横顔を知っている。
 間違いない。長門の姿だ。
 磁石に引かれるように足が動く。いつの間にか駆け足になって、気づいたら長門の目の前に立っていた。
 そいつは、開口一番に、
「だれ」
 誰って、と口にしそうになったところでカボチャの被り物を思い出す。引っこ抜くように外して顔を見せると、黒曜石のような瞳に少しだけ動揺の色が見て取れた。
 こいつは妹ではない。
 目の前にいるこいつは、間違いなく長門本人だ。
「ここはどこ」
「ここって、そりゃ学校だ。ハロウィンパーティの真っ最中」
 長門は首を右に、左に向けて、周囲を見渡して納得したように。
「そう」
 頷いた。
 さっぱりわけが分からない。中身も外見も長門なはずなのだが今日は違っていた。本来ほいつは妹であるべきなのに、端的な口調は間違いなく長門のそれだ。
 こいつは、誰だ。
「あなたに伝言がある」
 何だ。
「彼らはこの観衆を利用して、あなたたちの動きを探っている」
 どういうことだ。
「大衆を扇動することで人為的にデモを引き起こし、追跡していた」
 要はスパイか。
「あたしたちを見つけて追っかけるよりも、あたしたちを追う観客を追っかけたほうがいいってことだねっ」
 鶴屋さんの飲み込みの早さには助かる。つまりは、不特定多数の匿名の集合体が俺たちを探す目になり、そこに阿藤をピンポイントに突入することで時間と労力のロスを省き、かつ俺たちの動きを封じることが出来た。そういうことになる。
 道理で動きが良すぎると思った。
 ──でも。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
 長門か妹かどちらにしても、ハロウィンパーティには参加していないはずだ。ましてや俺たちでも知らなかった情報を、さも千里眼で見通していたかのように把握している。長門が人類を凌駕するスペックであっても、人の流動的な心を読めるとは思えない。だったら、どうやって知ったのだろう。
「今は、」
 その答えを長門はさらっと、
「教えられない」
 ミネラルウォーターのように単純であった。
 そういえば、さっきハルヒは作戦を立てていた。
 ハルヒが作戦の最後しか考えられなかったのも仕方がない。なぜなら、コンピ研がどんな作戦を使っているのか不明だったから。だから、もしこうだったら、という仮想のプログラムを作らざるを得ない。
 今はどうだ。俺はコンピ研の作戦を知っている。しかもハルヒは、残りの作戦を俺に考えるように命令していた。
 だとすると、一つの可能性が頭に浮かぶ。
 しかし要素が揃っていない場合もある。条件が揃っているかどうかは五分五分。俺にはどうすることもできない。不可抗力の可能性だ。
 俺は、その不確定な未来に賭けてみようと思う。
「長門」
「なに」
 目の前の少女が長門だと、俺は信じる。
「今すぐ用意してほしいものがある。 頼めるか?」
 長門は首をこっくりと動かし、肯定した。
 たまには大暴れしてみるのも悪くない。
 時間も限られている。素早く行動しなければならない。
 自分の罪は自分で償おう。後悔するのは後回しだ。
「鶴屋さん。少しだけ手伝ってほしいことがあるのですが、お願いしてもいいですか」
 初めての頼み事に目を真ん丸にしている。だが、すぐに何を言われたを納得し、口元から八重歯をちらつかせて、
「キミの作戦、聴かせてもらおうかな?」
 笑った。



  • 最終更新:2008-08-25 10:56:52

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