5/追走


 衒夷燈子(テライトウコ)は走っていた。
いや、正確に言えば走らされていたといったほうが似合っているだろうか。
目の前を疾走する目標を見失わないよう、彼女の本意ではなかったが追わざるを得ない状況
になっており、ここで逃してしまうと後々面倒なことになるのが目に見えていたからだ。

「やれやれ。自分の足で稼ぐのは性に合わないんだがね」

 一人愚痴るように呟きながらも颯爽と目標を追う燈子。しかし言葉とは裏腹にその顔には笑みを
浮かべており、どちらかというと今のこの状況を楽しんでいるようにも見えた。


 ここは神保町のとある閑静な住宅街。周りはその殆どがたんなる一軒家ではなく、
自らの財力を見せ付けるかのような立派な佇まいを見せる住宅で、敷地面積も首を左から右へ90度
動かさないと見渡すことができないほど広く、まさにお金持ちだけが住める一角となっていた。

 そんな財テクで築いた住宅を縫うように家と家の僅かな小道を疾走するは、上下を黒のスーツで
身を包み肩下まである髪を後ろで結う一人の女性。名を衒夷燈子と呼んだ。彼女の風貌からして
こんな”金持ち一家の棲む陰気な一角”(と彼女は常でそう思っている)に居るのは明らかに
浮いており、また彼女自身もこんなところに1秒足りとも居たくない思っていたが、
それは彼女の私情であり自らの仕事とは無関係と言えない事情もあった。

 世間一般的な名で言うなれば彼女の仕事は探偵業に区分される。事務所で小うるさく言う
一人の雑用係に言わせれば、彼女の仕事は『なんでも屋』と称されるほど如何なる仕事を引き受ける
のが方針らしいが、燈子の性格上仕事は請けるものの面倒くさがりな上に気分屋なので、仕事を
なんでも引き受けるとは言うものの、自身が興味のある依頼しか引き受けないのが常であった。

 今回の仕事もその一つで、本来はたんなる行方調査であったが様々な事情が重なり合い、
一つの仕事で”二つの仕事”を請けたようなものであった。

 調査の依頼は一つ。とある事件に遭った一人の女性の身辺調査。
 もちろんたんなる身辺調査などであったならば探偵業であるにしろ「なんでも屋」であるにしろ、
燈子にとっては取るに足らない(というより聞く耳を持たない)依頼であったが、
その依頼主はその”とある事件”の被害者でもあった。

 事件というのは最近不可解な事件としてニュースでも取り上げられている昏睡事件。被害は依頼主
の一人娘であったのだが、つい最近全くもって突然にその一人娘が被害に遭ってしまったのだった。
しかも事件の背景が全く分からないのが現状で、母親は娘が死んだという結果だけしか知りえないことに
業を煮やし、燈子の探偵事務所に足を運んだ、というのが今回の依頼の発端であった。

 一般的な観点から見れば結果がどうであれ警察という国家権力を頼るのが普通であろうが、
不可解な事件という烙印をその警察が太鼓判の如く押しているため、燈子は母親からの依頼相談
を受けている時はさほど腰を上げなかった。

 だがしかし、その被害に遭った一人娘を見つけたのが、なんと依頼主であるの母親であったということ
。そしてその発見によって齎されたきっかけとなったのが”一匹の猫”であったということ。これら
二つの繋がり、奇妙な出来事を話された燈子は漸く重い腰を上げることになったのだ。


 背景としてはこうだった。事件のあった日、もう幾分もすれば明日にもなるという時間帯で
依頼主の母親は一人娘の帰りを一人リビングで待っていた。
 依頼主の家は夫と娘の三人暮し。夫は街の噂になるほどではないが誠実第一としている弁護士で、
母親も商社で働くキャリアウーマンであった。

 そんな二人の間に生まれた一人娘。弁護士の夫と自身の鏡でもある一人娘は、自身らの育てのおか
げか学業や素行も申し分なく、清楚で誠実な人柄として育ってくれたという。
 その一人娘が深夜という時間帯になっても帰ってこない。夫は日々の仕事が片付かないのが常で、
帰りが遅いというのは最早周知の事実であったので、依頼主は一人リビングで待っていた。

 そんな時、自宅で飼っている一匹の猫が依頼主に寄り添ってきたのだと言う。

 猫は依頼主の家で小さい頃から飼っていた灰色でツヤのある毛並みの良いペットで、母親も娘も
それぞれ愛情を注いで育ててきた。しかし誠実第一な一家に育てられたとはいえ、猫本来の放浪癖の
類のためかよく家から出ては日を空けて帰ってくるを繰り返してきたのだという。

 そんな放浪癖もあるが愛情を注いできたという飼い猫。それが”そんな日に限って”娘の帰りを待つ
母親の元にやってきたのだという。
 今回も気まぐれな猫が甘えに来たのだと踏んで殆ど見向きもしなかったのだが、いつもとは違う様子
を見せ寄り添ってくる猫に注視すると、自身の手柄だと言わんばかりに口に何かを咥えていたのだと
いう。

 ――うちの猫が娘のイヤリングを咥えて私のところに来たんです。

 それが、事件の被害者であり母親の一人娘が愛用していた一つのイヤリングと猫の話であった。




「まさに怪異だな」

 依頼主である母親の話を聞いた燈子の第一印象はそんな一言で片付けられていた。もちろんそれは
母親の前で呟いた訳でもないし、先の眉唾な出来事を一言で片付けられないほど燈子は簡単ではない
と解っていた為、ただそう心の中で呟いただけであった。

 しかしながら事は単純ではない。一人娘の原因不明の事件から一転し、その被害者たる少女を
見つけた最初の人物がその母親であり、そのきっかけとなったのが飼い猫であったという事実。
それに併せ、母親の一人娘の元から家へと帰った飼い猫が咥えていたのが、その一人娘のイヤリング。
たんなる偶然として片付けられるほど単純ではないし、それが怪異でなくなんと呼べば表現しやすいで
あろうか。


 リビングで待ち惚けしていた母親の元に一人娘のイヤリングを咥えてきた飼い猫。母親はまず
その事実に驚愕し、そうして次に思った事が”なぜうちの猫がこれを咥えていたのか”という疑問に
辿り着く。

 そんな母親の思考を知ってか知らずか、飼い猫は主人である母親にイヤリングを渡すとまたいつも
のように出て行くのかと思いきや、母親の方を向いて何度も鳴いたのだと言う。

 ――娘のイヤリングを持ってきたうちの猫が”付いて来い”と、そう言っている気がしたんです。

 尋常ではない現実と、そんな尋常ではない現実を運んできた飼い猫。母親も何かに誘われるように
家から出て行く猫のあとを追い、そうして連れられてやってきたのが被害者である一人娘を発見した
あの公園であり、事件発覚の第一発見者となったのである――。


「事実は小説よりも奇なりとは言うものだが…やれやれ。全く同然、奇に衒う」

 結果としては真に奇奇怪怪な事件の背景だったが、そんな母親の依頼を受け捜査に乗り出した燈子。
原因不明の事件を解決するため、一人娘が死ななければならなかったその原因を調べるため、彼女は
普段の重い腰を知っている人間からはかけ離れた俊敏さで走り回り、依頼人の話を頭の隅で考えつつ
そう呟いていた。

 回っていたと言ってもただ熱血の如く走り回るというのとは訳が違う。追う目標を分析しつつ、
現れるであろう場所に張り込み知識と経験を持ち合わせた上での疾走である。かって知ったるなんと
やら。神保町という町の表も裏も知識として持ち合わせ、経験という名のこれから起こり得るであろう
出来事を知る。追い詰められた鼠でも宿敵である猫には噛み付くが、燈子はそんな諺をも”詰んでいる
状態なのに噛まれる猫が悪い”と詰めの甘さを心底認識していた。だからこその知識と経験である。


「――生物的な俊敏さでは勝てんが、さて…どうなるか」

 鼠を追い詰める猫。しかしそれは、確固たる燈子が持ち得る知識と経験を持ち合わせた追い詰め方。
鼠になんぞ噛まれて堪るかという単純で生理的嫌悪な詰め方でもあるのだが、それはまた別の話。
 目標を視認こそできないものの、着実にその場へ追い詰める燈子。人気のいない、けれど周りは
人の手が入った景色しか見受けられない一角。

”だからこそここに追い詰めた”

 燈子が知っている場所であり確固たる自信と経験によって張り巡らした仕掛け。そして燈子が追う
目標もこの場所を熟知しており、だからこそ逃げ場へとなった場所。追う側と追われる側。狩る者と
狩られるモノ。そうして機は熟し、地を熟知したモノ同士の決着は、人知れず静かに付こうとしていた。


――ギャウッ!


 人気のいない小道の先でそんな小さな悲鳴が聞こえ、燈子は当初の追走劇の時とは違う笑みを浮か
べる。本意ではない馬鹿げた追走と逃走が終わり、漸く目標と対峙できたことへの喜び…とは
違うが、少なくともこれからの『面談』を考えると、喜怒哀楽の”楽”であることは明白だった。


「…さて、逃げたところで結果は変わることはなく、ただ痛みを伴うだけだが…どうするね?」

 とある住宅街の一角にある袋小路へと目標を追い詰め罠にかけた燈子は、コツコツと足音を立てながら
静かにそう言う。逆に追い詰められたモノはそんな燈子に敵意を露にし、近づくなというサインと共に
叫んでいたが、燈子はそんなもの関係無いとばかりに近づいて行った。

「まぁ今お前が居るその”場所”から引っぺがすのにも多少痛みはあるだろうが、そこは私を無駄に
走らせた報いと思っておいてくれ。…逃げたらそれ以上の痛みと後悔を味わうことになるがな」

 自身の知識と経験に基づいた結果を見せ、追われるモノは追う者から逃げられないという意味と、
”逃げても同じだ”と言う意味を持たせそう言葉を投げかける。そんな薄笑みを浮かべながら言葉を
かける燈子に、先ほどまで興奮し囚われた目標も漸く叫ぶのを止め大人しくなっていった。

「しかしながらこうも思い通りに運ぶとある意味呆気無いな。逃走ルートと領域/テリトリーは解って
いたが、こうまで簡単に引っ掛かるお前はまだ若造ということか。簡易結界といえどソレに引っかかる
のを見るとお前はさぞかし『同属よりも野性味が無い』のであろう…なっ!」

「ギャワゥッ!」

 簡易結界。文字通り簡素でありながらも意味を成す結界もの。それを道や壁に張り巡らされたのが、
燈子が仕掛けた罠であり、燈子の持ち居得る知識を駆使して追い詰めた方法であった。仕掛けた本人
には何の制約も無いが、対象となる獲物は拘束する。それ以上でもそれ以下でもない。だからこその
簡素結界。

 そんな罠に嵌っている対象を”むんずと掴みながら引っぺがす燈子”。引っぺがされたモノは
仕掛けられた制約と強制的な切除により悲鳴を上げたが、燈子はそんな悲鳴なども関係なしと言わん
ばかりにそのまま、

 目の前まで掲げ"小さな目標"に対しこう言い放った。


「お前の知っているコトを全て話せ。もしくは知っているモノのところへ案内しろ。
 ――構わんな? ”灰色の猫”くん……」


 燈子が罠にかけその手で掴んだモノは猫。それは今回の事件の被害者であり、依頼人の母親でも
ある家に厄介になっていた、あの灰色の猫であった――。





  次節 6/猫との面談





  • 最終更新:2011-12-10 20:02:50

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